昭和46年11月18日 月次祭
とかくに信心は根を肥やせ。根が肥えておれば、一人でに物が出来るようなもの。とかくに信心は地を肥やせですね。地を肥やしておかなければ地が肥えておれば、一人でに物が出来るようなもの。この信心はここの所をよく分からせて頂いて、一人でに物が出来るようなおかげを頂きたい。おかげは頂きたいけれども心は肥えるどころか、やせ細っておると言うのでは、一人でに物が出来ると言った様な事は出来ません。ね。
今日先ほど久し振りで、天衣無縫という事を聞かせてもらった。佐田さんがさっきから参って見えてから、本当にまぁ日々本当に天衣無縫と言うか、親先生が何時も仰る、昔この天衣無縫という事を良くお話しました。天衣無縫というのは、いわゆる本当の神ながらなと言う意味なんです。それをよく使われますけれども、何か何て言うですかねぇ。放浪の絵描きと言うのがおりましたね。亡くなられましたけれども。
あの方の生き方なんかは、天衣無縫というような生き方をしていましたけれども、あれは本当の意味での天衣無縫ではない。天衣無縫と言うのはやはり必要なものが必要な時に集まってくる。ね。という様なおかげを頂くという事。例えて申しますと、ここにあの、お賽銭箱の前に衝立があります。あれは、当時の椛目、御結界を、ここに置くことはいけないと、教会でないから、と言うような事が問題になりまして、それでまぁいうなら涙を飲んで、御結界を下げた時代がございました。
そしてそちらの楽室のほうに、私が座らせて貰うてお広前のほうから、こんなに向って、みんなにお取次ぎを頂いた時代があった。ご承知のようにあちらは四畳半の長い部屋ですから。そすと後ろのほうでは、三橋先生が、何時もお茶をなさる。それで後ろのほうでは、こうお茶道具が並んでおったりお茶が。前のほうではお取次ぎをしとるというのも、何か変だからと言うので、衝立を作ったなら良かろうというので、衝立をお供えする方がありました。
はぁもう実に神ながらに、先生衝立を作るのですがその何の木で作ったら良かろうかと言うからそれは桑の木が良かろうと、しかしそげな大きなのですから、桑の木があるだろうかと、と言うのでその方はあっちこっちの製材所に尋ねられましたけれども、そういうのが無い。それでまたお願いに見えましたから、もう一遍行ってみてごらんと言うて、先崎かどっかの製材所に行かれたところが、ちょうどそこのご主人が、長靴を履いて出かけようとしておられるところであった。
そして実はこうして、桑の木を探しよる。あぁそんなら、私は今日は忙しかけんで、出かけるけれども、あちらの隅に確か、ああたのいいなさるぐらいなつがあったですよち言われる。それから行って見たところが、なるほどちょうどあの、衝立を作るだけの材料があったと言うて、神ながらに出来た。それで、表装はと言うて、ちょうど、高芝さんところの宅祭りの日でしたから、すぐ田主丸の表具師さんを呼んで、表は金にしてもらい、裏はあの水色のあれにさせて貰おうという事で、あれが出来た。
まぁような普通ならね、まぁ両方とも金銀と言うか、また普通は、普通の、まぁ裏のあれを張るのですけれども。そういう風に裏も表も生かして使おうと。御結界のほうに向かっているほうは金。裏のほうで、お茶をする時には、久留米の三橋先生を水の性だと言う風に、あの当時頂いとりましたから、水色が良かろうというので、出来たんですよ。まぁここでは小道具一つでも、皆さんが真心込めてお供えなさる。その小道具がです。何時までも、その使えるように出来ておる。
あそこは丁度あの四畳半の畳二枚のところを、こう仕切る衝立になっておったが、ここへ来たら丁度あのお賽銭箱が出来て、お賽銭箱の前の衝立に丁度都合がいいという具合に。そういう事をあの神ながらとも言うし、天衣無縫と言うのはそういう事である。天衣無縫という事を字引で見ますと、ね。縫い目の無い衣とある。しかも誰が着ても、ね。小さい人が着れば小さい。大きい人が着れば、大きくなるというほどしの、不思議な着物を天衣無縫と言うのであると。ね。
そういうおかげを頂いていくという事。これが私はひとりでに物が出来るようなものであると言うおかげであると思うのです。佐田さんも、その事を言っておられました。もう本当に先月から今月にかけて、たまがるほどお金も出させて頂きましたがね。それが本当に必要なものが必要に応じて、おかげを頂いておるという事を、お届けされるのを聞かせて貰って、ほんに、家もそうだったなぁ、家はまぁ日々なんですけれども、それがそのいよいよの時になってみないと分からない。
さぁ本当にここん所、結婚式でもう随分お金を出させて頂いた。それでもやはり住友銀行の方から、こうして預金をしてくれと言われりゃその預金もさせて貰い。田主丸信用組合の方から、今日は集金日ですから集金に見えられた。私は今日はそうですからと言ってから、繁雄さんがお届けされてから、ある事はあったやろかと言うてから申しました事でした。それからあの払ってしまって、今日はこうこして払わせて頂きましたち言うから、今日のも入れてがっつり残ったのが、五万円あまり残っておった。
それ先ほどから三万ばかり払わんならん事があったから、本当言うならば、二万円ばっかり、残っておるという事になる。あぁ随分に大きな金が、うちの通帳の上では動いてはおりますけれども、出たり入ったりの中に、例えばもう、本当に、必要な事が必要な場合に。必要なものが必要に応じていただけれると言う様な事。それが、あんまり、ふんだんにある時には、おかげ頂き過ぎとるのですけど、気が付きませんけれども。
そのようにがつがつの時になると、それがはっきり神様の働きだという事が分かるほどしのおかげ。そういうおかげを私は天衣無縫とこういうのです。ね。小さければ小さく。大きければ大きいで、ちょうどいいと言うようなおかげなのですから。その為にね、私共が常日頃、どういう信心をさせて頂いておかなければならないか。どういう風に自分の心を、豊かに肥やしておかなければならないか。地が肥えておれば、ひとりでに物が出来るようなものである。心が肥えておればひとりでに物が出来てくる。
我で出来るのではない。我欲で出来るのではない。自分の思惑が当たったから出来たと言った様なのは、もう実にそれは頼りのないもの。我と先ず知るべきだと思う。いやむしろその例えば出来たものによって、却って首を絞められるような結果になるという事。これはもう事実そうなのですから、皆さんその自分の才覚で儲け出したとか、出来たなどと言う様な事はね。本当にこれは本当に神様のおかげで出来た。
神様のおかげなればこそ、これが成就したというおかげを頂かなければ、折角信心を頂いておっても値打ちがないと私は思う。今朝から御神前で御祈念中に頂いたのは、とやっぱりそうだった。確かめてみろうとそのまま忘れておったけれども。月を書いて己と言う字を書いたらやっぱり肥ですか肥前の肥。確か肥前の肥はそうでしょう。そうでしょう茂さん。月を書いて己私はもうそれを肥と頂いた。肥(こえ)と言うわけです。で今朝からの御理解の中にそういう事を、皆さんに聞いて頂いたんですけれども。
月という事は是は人間氏子の事。天地の親神様をね、天地の親神様を太陽に例えるならば、私共はお月様の様なものである。お月様そのものにはね。皆さんもご承知の様にもうそれこそ、何の光も実は無いのである。けれどもあれは満月ともなるとね。太陽の光を受けてそれを地球上に、こうそれこそ昼を欺く様な光を送る事が出来るね。月夜の晩ですそれこそ昼を欺く。昼のごたると言うでしょう人間でもそうです。ね。
人間ですけれどもそれこそ、神様のごたる仏様のごたるという人はそういう心が、十五夜のお月様のように、円満な方達なのです。円満に、その心が豊かな人達なんです。ね。だからいうならば、神様を欺くようなという事にも言えるかも知れません。ね。本当に神様のような人じゃ、仏様のような人じゃという事になるのです。ね。だから月と言うのが人間氏子である。いわゆる己信心とは己をね、完璧なものにしていくこと。自己完成である。信心と言うのは。
私共が神様から頂いておる、神の氏子としての根本的なところに思いを置かせていただいて、それが何時の間にか、人情我情我欲の為に人間の面をしておるけれども、姿をしておるけれども我情我欲で一杯で、悩み苦しんでおるというのが、普通人間の姿なのである。そこで信心とは持って生まれた頂いたそれを。本来頂いておるそれをです。私共は我情を取り我欲を取り。日々の改まりが第一である。
本心の玉を磨く物として、信心をしていくところに、神様から頂いておるところの、その本質的なものが光を放ってくるのである。と言うのはどういう事かと言うと。心が和賀心になってくるのである。円満になってくるのである。和らいでくる喜びが頂けてくる。そういう心なんである。ね。そういう心ですから、神様太陽がこう光の反射を受けてそこに光を、いかにも自分の光のようにして現すことが出来るのである。
ところが、私共の場合はね。先ほどまでは、ニコニコしておるけれども、さぁ次の瞬間に、何か自分の気に食わんことでもあると、もうかつかつとしておる。もう心は暮の闇である。これは心が豊かでない、肥えていないからなのであります。お互い一つ、ひとりでに物が出来るようなおかげを頂くためにね。いわゆる、丸い丸い心を目指させていただいて、信心の稽古をさせて頂かなければいけませんね。いわゆる自分を、いわゆる己を完成していくところの修行に、本気で取り組まなければいけません。
広ければ広く、狭ければ狭く、水の流れるに不平の非ずと言う。これは昔、頂いた御理解でしたよね。いわゆる、水の生態を、自分の心の状態の上に頂こうと言うのです、ね。天真地心ですかね。誠心と言うのは、水の心です。広ければ広く狭ければ狭く、不平もあらず、そういう心の状態を言うのです。ね。そういう心の状態にならせて頂く修行をさせて頂くところからです。ね。広ければ広く狭ければ狭く、大きければ大きい狭ければ狭いでその時その時に、その必要なものがです、ね。
大は小を兼ねると言うけれども、小が大をかねることが出来ないというのが、普通一般。けれども小であっても良し。大が必要な時には、それが大になるという。いうならば、孫悟空の持つ、如意棒のようなものであるね。そういう私はおかげが頂けて行けるのが、御道の信心でありね。ひとりでに物が出来るとは、そう言う様なおかげを受けていくことであると、私は思う。そこで、本気でその、例えば水の心。地の心とも言う。広ければ広く、狭ければ狭くね。何の不平もあらずという心の状態をね。
保たせて頂く為に修行が要るのでございます。ね。今朝からの御理解は、ね。神に近付くようにせよ。ね。神を恐れるようにしてはならぬ。神に近づくようにせろとこう仰るが、ね。神様に、もう近付かさせて頂かなければ。それを、今朝は、形の上からと、心の上からの事を申しました。神様に近付いていくという事は、形の上で言うとです。例えば、私、昨日、相撲を見せていただきました。綾部さんのご招待で、まぁ始めて、あぁいう相撲を見せて頂いた。
十年ぐらい前にでしたかね、一遍見せて頂いたんですけれども、それはあの真ん中ごろから、こう双眼鏡で見らなければならんようなところでしたから。まぁとにかくはよしまえればよかちゅうような感じで、ね。帰ってきたら家内が申します。そらもう親先生が、相撲の、一番良か席に座っちゃるげなが、あん良か席というところはずうっともう、お茶が来る食べ物がもう果物が、その持って来るそうながもうそうにゃ、また話してからまた、帰ってきなさるじゃろうち言うてから言いよったけん。
そうにゃ手ば振ってきなさるじゃろうちからぞうたんのごと、もう水一滴飲まじゃったぞち。ほんなことお茶一服飲まじゃった。ね。そら飲まれんから飲まんのじゃない。飲む暇がなかった。もうとにかく目に見えるのは、お相撲さんの大きな姿ばっかりだもの。土俵上だけだもん、ね。もうまぁ一番展近の場所からこう見せて頂いたのですから。ね。もうどんなに例えば私が、相撲が嫌いと言う事じゃないけれども、好きではない。その好きではない相撲を見せて頂いて、何時間座ったでしょうか。
四時間も五時間も座ったでしょうけれども、足も崩さんで済んだ。水一滴飲まんでも飲む暇がないほどしに、いわば見とれるようにして見といた。これが何回か続きよったら、私もひょっとすると、相撲好きになるかも知れんとさえ思うた。まぁこれは後にも先にも、昨日が最後という事にして貰わんと、私はぼうけ性ですからね。また相撲にどんぼうけちからもう、相撲のありよる間はもうその相撲の御理解ばっかり頂かにゃんごたったっちゃ困りますから、皆さんが。
はっはははまぁそういう風に自分で思うておりますからね。けれども本当にあれを続けておったら、やはり相撲が好きになるだろうと思うように、やはり信心でもそうです。神様に近付かなければ。それを私は今日は御祈念のことで申しました。ここで御祈念をするのと、あそこで御祈念するのと言うたら、もう値打ちが違う。もう私の場だと、ここは決める位な気持ちがなからにゃいけん。神様に近付いて行かにゃいけんと言うようなお話をさせて頂いたんです。これは形の上から入っていく。ね。
私が御本部参拝させていただいて、お広前に参っても奥城に出ても、私は教祖金光大神の奥城の目の前に座らなければ、私はその出来んと言うものを持っておる。いわゆる神様に誰よりも近付かせて貰おうと。ですから神様がどういう中にあっても、やはりそこの席だけは、こう空けてくださるような感じが致します。この頃、福岡の記念祭の時に、私が、福岡での修行中の時分に、毎朝お参りをして、何時もここは、大坪さんの場だと言われるくらいに、私が、そこへ座っておるところに、あんなに沢山な先生方。
沢山な信者のある中に、私が案内されたのはそこでした。ね。という様に私共はね、そこに神様と仲ようする信心ぞと仰る。仲ようしなければおられない。それが好きにならなければ仲よう出来ません。為にはやはりいわゆる砂被りで見よらなければ。まぁここで言うならば、私の唾しずくがかかるごたるところで、御理解でも頂こうと言う気にならなければ、ね。いけないという事を申します。これはまぁ形の上からそういう思い込みを持って形の上からでも、それを努めていくという事。
同時にほんなら心の上で、神様に近付きよるという事は、只今申しましたお月様の例をもって申しました。自分の心が、ね。暮の闇であってはならん。いや少しは三日月さんでは、まだ頼りにならん、ね。せめて半月さんぐらいになりますと、道に提灯付けんでも歩けるようなおかげが頂かれるように。自分の心の状態が、何時もこの円満を目指して、和賀心を目指しての信心でなからなければならん。
それには、自分の心を肥やしておかなければならない。常平生の信心が大事じゃと。常平生の信心は何を焦点にして、信心をするかと言うとです。結論は天衣無縫のおかげを頂けれるような事ですけれども、その過程においては、広ければ広く狭ければ狭くという様な、私は、修行をさせて貰わなきゃならない。ところがなかなか狭いと言うては、窮屈だと言うては、不平を言う。
広過ぎると言うては、またこぼすと言った様な事では出来ませんけれども。不思議に本心の玉を磨くことに改まらせて頂くことに、精進をさせて頂いておりますとです。それが気にならんようになる。広ければ広く狭ければ狭く、いらいらもなからなければ、もやもやも無い。腹立ちもない。心が暗くなることは、なおさら無いという様な心の状態を保っていくことが信心だと。そこに、天衣無縫のおかげが頂かれるのであります。ね。折角お互い、御道の信心をさせて頂くのでございますから、ね。
只一生懸命にお願いをして、おかげを頂くという事も願わなければおられませんから、願いますけれども。ね。そこでなら根を肥やしていくと言う事はです。矢張り今はお金の肥料ばかりですから、左程に汚い肥料もないですけれども。本当いうたら肥料と言うものは、もう汚いものだという事である。ね。昔の農業学校で本当か嘘か知らんけれども、試験の中に肥壷の中に手を突っ込めれるという事が、平気で出来る様でなからなければ、百姓になる資格は無いと言うて、そういう試験があったと言う事を聞きました。
はぁもうあげん肥でも扱うとが、もう恨めしかごつなったっちゃ、本当に百姓は出来まいと思いますよ。ね。ならそういうのほどが肥やしになるのでしょうが。そういうのほどが、地を肥やしていくのでしょうが。だから私共の日常生活にもそれこそ、ね。それこそ、馬屋ん肥しとも分からないようなものがです。ね。それが愈々心を肥やしていくのですよ。綺麗ごとばっかり言うとったっちゃ、決して心は肥はしません。心豊かにはならん。もうそれこそもうとにかく、ね。
信心しとらにゃならんけん、辛抱せんならんと言う事ではなくてです。信心させて頂いとるおかげでです。普通なら腹の立つことであろうけれども、これを有難く頂けれるという様な生き方にならせていただかにゃいけん。それが心を肥やして行く事。それにですいわゆる広ければ広く、狭ければ狭くという、いわゆる心を何時も自分の心のなかに頂き続けていかなければいけません。ね。そしてそれをまぁ具体的に言うとです。ね。なしかち言うと、神様の御働きなのですから。いわゆる御事柄なのですから。
だからその成り行きそのものを大事にしなければならない。成り行きを大切にして、合掌をして受けて行こうと言う生き方にならなければならんのだけれども、この事だけは、許されんと言うて。この頃からもここのお客のことでですね。ある人がもう本当に、大変おかげを頂いて言うならばまぁ本当に、合楽のおかげで今日があると言う様なおかげを頂いておるけれども、最近無信心になっておる。ね。その事でそれは問題がお話をすると、具体的に分かりますけれども。
例えば教祖のお言葉の中にね、こういう事がありますね。お言葉じゃない金光大神の中に、ね。ある親戚の婦人の方に対してですね。この女はもう見限りた女と言うておられるところがありますね。もう教祖金光大神が見限っておられるというのですよ。その仕打ちのざまが悪い。ね。それでも私はね私はその事をはぁそういう人であっても助かって貰わなければならん、ご縁を頂いてあのように一時はおかげを受けた人なのだから。どうぞおかげを頂きますようにという事をお願いさせて貰いよったらね。
黒い羽を頂いたです。普通こう白羽の矢が立つというでしょう。信心の素晴らしい人、ね。いわゆるそういう生を持っておる人は、いわゆる教祖金光大神天地の親神様が白羽の矢を立てなさったのです。合楽教会をこの様におかげを頂かせて下さるために、大坪総一郎に、神様が白羽の矢を立てなさったのです。それではなくてその反対にです。黒羽の矢が立つという。私はその御理解を頂いて、胸がドキドキドキドキして一時ばっかり、止みませんでした。
はぁこの人はこらもう、愈々つまらんのかと思いました。黒羽の矢を立てると神様が仰るです。だからもうそのことは祈るなと。いわゆる教祖の言葉を借りると、もう、見限り果てた女子だという事なんです。ね。神様から見切りを付けられると。成程その人に言わせればです。腹の立つとか、そういうような事情もあったかも知れんけれどもです。例えば、私共が、信心の稽古をさせて頂きよってです、ね。
例えば無信心にならなければならないというような時があります。神様に近付くのではなくて、神様から遠ざかるような事柄に直面したときほど、それは根肥しになると思うて、そこを大事にしていく信心が大事なのです。親先生があげなこと言いなさったけん、もう、腹ん立つけんもう参らんと例えば親先生から、そういう事を言われたってそういう、嫌な事ならいやな事ほどです、大事にさせて頂いて、それを信心の根肥しにしていくという事が大事なのです。ね。
教祖のお言葉の中に、お祭り替えとかお国替えとか、様々なお言葉あります中に、おさび替えと言うのがあります。段々信者が多くなって来るとです。いわゆるおさび替えと言うのがある。さびると言う事さびられる。ね、大きなにゅうでこい。そして実のある奴は残るけれども、実のないのはもう消えていく。こういうのがもう神様が見限りを付けなさったのじゃなかろうかと私は思うです。ね。
そういう例えば見限り果てたと、神様から言われることの無いような、寂びられる時に、残る私にならせて頂いておかなければです、ならない。ね。私共の信心が芯弱きためにです。例えば様々な時があります。ね。こら信心の場合でもです。もうそげな事のごたるなら、もう合楽には参るめぇと言う時もありましょう。ね。けれどもそういう時ほど、大事にする人。それが、私は、根肥しになると思う。ね。だから根肥しという事はもう、私共は、心掛けておけば、心を肥やしていく材料は、沢山あろうと思う。
取分け素晴らしい根肥しはです。もう信心な止むうかと思うごたる時に、直面した時です。私共はその事をです大事にさせていただくような心こそが、私は心を愈々豊かに肥やして行く事になる。そこからです。ね。言うならばひとりでに物が出来るようなものぞと言うようなおかげが受けられる。いわゆる、天衣無縫のおかげが受けられるのでございます。ね。とかくに信心は、地を肥やせ。地を肥やしておけば、ひとりでに物が出来るようなものであろうぞね。
だからどげんして、ほんなら地を肥やしたなら良いかという事を、今日は大体申し上げたつもりですけれどね。そしておかげを頂いて、それこそ天衣無縫のおかげを頂かせて貰うたね。神様の御恩徳を、心一杯に感じさせていただくところの生活。有難い勿体ないの生活に入っていく稽古をさせて貰わなきゃならない。ね。心がいらいらもやもや、神様から心が遠のいておる。いいえ忘れはしません。
金光様の事はと言うてお参る。是はね確かに忘れはするまいけれどもです。ね。矢張り神様がここであるとするなら、遠ざかるのですから、神様は変わりなしなさらんのですけれども、遠ざかるのは是が段々小さく見えてくる。ね。そして悪い事でも悪い事を気が付かん様になり、ね。こうする事は良い事だと分かっとっても、良い事はしゅうごつなかごつなってくる。神様が見えんごつなってくるです。
終いには遠ざかっていくと。愈々神様に近付かせて頂いて、ね。心の面からまたは、形の面から、ね。神様をいわゆる身近に感じさせて頂けれるおかげを頂いていっておりませんと、いよいよ、根肥しになるようなものを、粗末にする。愈々根肥しになるようなものを、腹立てて受けたり、ね。したんじゃもう受けたが受けたになりません。ね。それをどっこいと、元気な心で受ける、有難い心で受ける。そういう
(マスターテープの末尾切れ)